プロローグは天敵との邂逅
穏やかな春の日のこと。
中学二年生になった俺は、ふんわりした陽気にまどろみ、ゆっくりと起床した。
もう新学年新学期が始まった今日この頃、いつもより少し遅れて家を出た。
登校する足取りは軽い。
まるで新しい出会いや発見があるのをあらかじめ知っているみたいだ。
新しいクラスになって数日が経ったのに新しい出会いなんて早々ないはずなのに、こういう桜舞う春の日は、心を穏やかにしてくれる。
でも、いつまでもゆったりと歩いてはいられない。
あとちょっとで遅刻ギリギリの時間になっちゃうからだ。
この際新たな出会いや発見はいらないから、急いで学校に行かなくちゃ。
そう思ったときだった。
俺は変な少年を見つけてしまった。
足が止まる。
「……」
くせ毛の少年は、俺と同い年くらい。だが、青いパーカーを来ているのでどこの学校なのか、そもそも学校に通っているのかもわからない。いや、中学まで義務教育だから学校には通っているはずだ。
少年はコウモリのように逆さまになって公園の木の枝にぶら下がり、枝に掛けた膝を軸に鉄棒でもするみたいにブラブラしながら目をつぶっている。
寝てるのか? こいつ。
見なかったことにしよう。
目を伏せて足早に通り過ぎる。
が。
バタン。
「いてて……」
なにが起こったのか、わかっている。俺の上から少年が落ちてきたのだ。俺はつぶされるようにうつ伏せになってしまった。痛いったらない。
俺の上に座っている少年が困ったように言った。
「危ないな~」
「それはこっちのセリフだ!」
「え? なんだ? どこからか声が聞こえるぞ」
「おまえの下だよ! いいからどけ!」
少年は俺を見下ろし、初めて俺の気付いたように目を丸くした。
「キミ……」
「ああそうだよ。ちゃんと謝るなら許してやっても――」
「なんでこんなところで寝てるの?」
ズコーっと俺は思わずこけてしまう。いや、すでにうつ伏せに倒れてるけど。
「寝てねーよ! 違うだろ! 俺が歩いているところに、おまえが落下したんだ。なんであんな木に登ってたんだ?」
「キミキミ、人に名前を聞くときは、まずは自分が名乗るのが礼儀でしょ」
「まだ聞いてねーよ、知りたくもない」
俺が呆れたように言うと、少年はうんとうなずいて、
「ぼくは柳屋凪(やなぎやなぎ)。全人類を笑顔にするために生きている、天使のような中学二年生さ」
こっちが名乗らなくても自分から名乗るのかよ。しかもこいつ、俺と同い年か。別の学校・クラスでよかった。
「そ。じゃあね、凪くん。俺は急いでるから」
「急いでるなら駆け足だね。それ、いちにっ、いちにっ」
俺の真横に並んで足踏みを始める柳屋凪。さらには、じーっと俺の顔を覗き込んで、
「早く~。遅刻しちゃう~」
「あのさ。凪くん」
「水虫くさいじゃないか。ぼくのことは凪って呼んでよ」
「水虫くさいじゃなくて水臭いだ」
「それもあり~」
「それしかないんだっ! それでさ」
「なに? ぼくたちの仲じゃない。なんでも言って」
「俺は、ひ・と・り・で、先を急ぐんだ。悪いけどお先に」
ひとりで、の部分を強調して言って、俺は走り出した。
思ったよりロスは少ないかな? でも、今日に限っては家を出るのが遅かったし、徒歩じゃ遅刻だよ。
とにかく走ろう。
「ところで、つかぬ事をお聞きしますがよろしいですか?」
なんだよ。まだ俺の横を走ってたのかこいつ。
「ごめんね。悪いけど急いでるからまたね」
「ありがとうございまーす」
話聞いてねーなこいつ。ダメだって言ったのがわかってねーのか。
「実はぼく、道に迷っているんだ」
「迷子?」
「子供じゃないんだから迷子はやめてよ~。あははは」
なにがおかしいんだ。俺が面白いことでも言ったみたいに笑っている凪だが、おまえは充分に子供じゃないか。
「迷子なら交番にでも行ったら? じゃ、俺はこっちだから」
「じゃあぼくもこっち~」
「ついてくるな!」
「いいじゃないいいじゃない。それともキミ、道に迷ってるぼくを見捨てるつもり?」
最初っからそうするって言ってるのがわかってないらしい。
「ああもう! わかったよ! 交番の場所を教えるから、ひとりで行ってきて」
「ぼくこの街初めてだから、地理も土地勘もとんちんかんもわからない」
とんちんかんはおまえだ。
凪は顔を上げて、すぅっと息を吸い込み、大きく吐く。
「でも、ここ――いい街だね」
そうふわっと微笑んだこいつは、純真な笑顔だった。
さて。
俺と凪は走り、角を曲がった。
ちょうどここには交番があるのだ。
「てことで、お巡りさんに道を聞くのが一番だから。そこの交番で聞いてね。さようなら」
一瞬できびすを返して走り出す。
ちょっと遠回りしちゃったし、ここからはいつもとは別ルートだ。
「まったく、変なやつに会っちゃったもんだよ。でもまあ、もう二度とあいつと会うこともないだろ」
「あいつって?」
「は? そんなの、さっき会った柳屋凪とかいう変人に決まって……え!?」
バッと横を向くと、俺に並走する凪がいた。
「な、な、なんでおまえがここにいるんだよっ!」
「ところでさ、ぼくがっかりしちゃってまだキミの名前聞いてなかったよ。キミは誰だい?」
俺はため息をつく。
「おまえのどこががっかりしてるんだよ!? がっかりじゃなくてうっかりだろ? ったく、しょうがないから教えてやるよ。俺の名前は、明智開(あけちかい)」
実は探偵事務所で働いている少年探偵なのはナイショだ。学校のみんなも知らない秘密で、普段はただの優等生を演じている。
「年は凪くんといっしょで、中学二年生だよ」
凪は驚いた顔で声を上げる。
「なんだって?」
「なにか気になることでも?」
聞き返すと、凪は自分の耳に手をやって、
「ごめん音楽聞いてたから聞こえなくて」
と、イヤホンを耳から取り出す。
前に勢いよくズッコケるが、持ち前の運動神経でなんとか立て直して俺は凪につっこむ。
「そっちかよ! 人に質問するならちゃんと聞く準備しとけ!」
「あっ! 開、ちょっと待って」
「待てない」
しかし、道をそれた凪を見ると、横断歩道を渡れないおばあちゃんに付き添って、手を挙げていっしょに渡ってやっていたのだ。
意外とこいつ、いいやつなのかもしれない。最初に、人類の笑顔がどうこう言ってたのも、あながち本心なのかもな。
俺も凪といっしょにおばあちゃんに付き添って、横断歩道を渡った。
「ありがとね」
いいえ、と答えて俺と凪はまた走り出す。
ここの横断歩道渡っちゃったからまた別ルートだ。
さらに走ると。
「開、こっちだ」
「え?」
すると、道の先には泣いている幼稚園児くらいの子供がいた。
「うわーん」
仕方ないからその子のお母さんを探してやった。角を二、三回曲がってすぐに会えたからいいけど、また時間のロスだ。
「開、見てくれ」
またちょっと進むと、凪が指差す先に、今度は魚をくわえたどら猫がいた。
「あれはいいだろ」
「よくないよ。ぼくたちで捕まえるんだ」
「また人助けかよ」
「あの魚、ぼくの今日の朝食にしてやる」
「好きにしろ」
と、そう言って凪とは別の方に行こうとしたら、凪に手を引かれて一緒にどら猫を追うことになってしまった。
どら猫を追いかけていると、手を伸ばせばあと一歩、というところで、どら猫は魚を口からぽろりと落とした。凪が魚を拾うと、そこになぜかちょうど魚屋さんがふらふらした足取りで走って来て、凪を見て魚を凪の手から取り、握手してきた。
「ありがとう! キミはなんて親切なんだ。本当にありがとう」
「いや、それぼくの朝食……」
また馬鹿なことを言っている凪の手を、今度は俺が引いて、逃げるようにその場から走り去った。
「まったく、凪くんっていつもこうなの?」
「いつもは違うよ。普段はこんなにくせ毛じゃないんだ。今日は寝ぐせがひどいけど、通常はもっとまっすぐなんだぜ?」
「ああそうかい」
なるほど、こいつはいつもこんなにトラブルメーカーであるらしい。髪型については知ったことじゃないけど。
で、その次はというと、お姉さんが乗っていた自転車の外れたチェーンを凪が直そうとしてめちゃくちゃにして、それをさらに俺が直してやった。それから、歩道橋を上るのがつらそうなおじいちゃんを手伝って、おじいちゃんと凪がいっしょに足を滑らせて階段から落ちそうになったところを支えてやり、書類を道にばら撒いてしまったサラリーマンのおじさんの書類をいっしょに拾ってやり、川で溺れそうになっている子犬に手を差し伸べて、トラックにはねられそうになっているトノサマガエルを助けてやった。
最後に、外国人の青年に英語で道を聞かれて、凪が日本語で昨日の見たアニメの話をし出して意味不明な不毛な会話になりそうだったので、俺が代わりに英語で道を教えてやった。
立ち去ろうとするが。
「せっかくなら一緒に行こうよ。さっきのゲームの話の続きでもしながら歩こうぜ」
「オー、センキュー」
てな具合で、なぜかここだけ凪の日本語(とジェスチャー)が通じて一緒に歩いて目的地の駅まで送ってやり、俺たちはその外国人と別れた。
凪は額に手をやって、
「ふう。今日もいいことした」
「だね。いいことすると気分がいいね。じゃなーい! なんでこんなに困った人や動物にばっかり会って厄介ごとに巻き込まれるんだよ! これじゃ完全に遅刻だよ! じゃあな」
もう凪のことは放っておいて、俺は全力で走った。
息を切らせて学校に到着すると、校門には体育教師が立っていた。
「なんだ明智。遅刻か。無遅刻無欠席で優等生なおまえが珍しいな」
俺は会釈して、息を整えてから口を開く。
「これには事情がありまして」
「なんだ?」
「途中、道に迷っている子を交番に案内してあげたんですが、その子といっしょにいたら横断歩道を渡れないおばあちゃんやどら猫に魚を盗まれた魚屋さん、川でおぼれそうになってる子犬などなど、見て見ぬふりできないことが立て続けに起きてしまったんです」
俺がかいつまんで説明すると、体育教師は顔をしかめて、
「優等生のおまえの言うことは信じてやりたいが、そこまでわざとらしいと疑わざるを得ない。残念だが、遅刻は遅刻。嘘をつくのも自分の評価を下げることだ。以後気を付けるんだな」
「いや、本当に――」
しかし、もう体育教師は聞いていなかった。生徒は俺で最後だったのか、さっさと門を閉めて職員室へ向かって歩いていく。
ちくしょう! 嘘なんてついてないのに。これまで俺が培ってきた優等生の評判はこれでガタ落ちだよ。せっかく無遅刻無欠席で体調が悪い日も朝が辛い日も学校に通ったのに、内申に響いたらどうしよう。
それもこれも、ぜーんぶあの柳屋凪のせいだ。
腹が立つが、同時に、力が抜けた。
「はあ」
俺はため息をつく。
もうなってしまったことはしょうがない。俺も今朝のことでだいぶ疲れた。ちょっとゆっくり休んで落ちつけよう。
だるい足取りで教室に行くと、クラスメートたちが噂話に花を咲かせていた。
「今日、転校生が来るらしいぜ」
「どんな子かな?」
「男? 女?」
「うちのクラスってホント?」
なにやらいつもよりざわついている。浮足立っているとでもいうのか、転校生っていうのは学生にとっては一大ニュースだもんな。
窓際の後ろの席に座ると、近くの席の女子が声をかけてきた。
「開くん、おはよう」
「おはよう」
「どうしたの? 開くんが遅刻なんて珍しいね」
「うん。ちょっと道に迷っている人に助けを求められて、それで遅くなっちゃったんだ」
「うわぁ。開くん優しい」
また別の女子が横から顔を出して、
「さすが開くん。心までイケメン」
俺はあははと小さく笑って、
「そんなことないよ」
と謙遜する。
実は、探偵王子と雑誌なんかで取り上げられたこともあるくらい、俺は容姿もよいのだ。もちろん顔出しはNG本名非公開なので、いつも顔の下半分は見えないようになにかで隠して写真撮影に応じるから学校の友達も誰も知らないのだが、顔が全部見えなくても俺の評判は上々なのである。
まあ、クラスメートに誤解をされなければいいか。一回の遅刻くらい、普段の優等生っぷりで充分カバーできるはずじゃないか。そうだよ、これからまた、勉強もスポーツもできる上に控えめで品が良い誰からも好かれる優等生として、当たり障りなく学校生活を送ろう。
よし。
俺は決意を新たにした。
すると、教室の前のドアから白髪交じりで四十代くらいの我がクラスの担任の男性教諭が入ってきた。
クラスメートたちはしんと静かになる。
転校生が来るってことで、期待しているのだろう。
先生は俺たち一同に向かって、
「今日はみなさんに報告があります。さあ、入って」
と、先生はドアの方を見て言った。
俺はたいして興味もなかったから窓の外を見ていたけど、視界の隅で動く転校生が教卓の前で立ち止まったのがわかり、視線を転校生に向けた。
えっ。
なんであいつがここに。
転校生――それは、今朝ばったり出会ったあのくせ毛の少年、柳屋凪だった。
まずい。
あいつは絶対に俺の平和な日常を壊す存在だ。次から次へと厄介ごとを持ち込み、俺を振り回すに決まってる。しかもあの変人度合い。初対面からあいつと知り合いだと思われたら俺の人間性まで疑われる。
なるべく気づかれないように、顔が見えないように……。
顔を伏せようとした瞬間、やつと目が合った気がした。
慌てて俺は顔を伏せて手で隠す。
「じゃあ、自己紹介を……あれ?」
先生の言葉も聞かず、スタスタと歩く足音が聞こえる。それがこっちに近づいてくるのがわかる。
やつは、俺の席の前で止まり、俺の顔を覗き込もうとする。
「ん?」
バッと、俺は顔の向きを変えて、顔を手で隠し続ける。
やつもすかさず回り込む。
「ん?」
しかし俺も負けない。顔をそむけて隠す。
「ん?」
またやつが動く。
「ん? ん? ん? ん?」
と、何度もそれを繰り返した。しつこいんだよ。
ようやく止まった凪は、ふっと肩の力を抜いて、
「もう。しつこいぞ~」
バン、と机を叩いて、
「どっちが!」
と俺はつっこんだ。
ハッと、俺は慌てて口を押えて座り直す。
しまった。品が良く優雅で王子様みたいと言われるこの俺が、みんなの前でつっこみをしてしまうなんて。しかもこんなやつに。
俺が顔をそむけていると、凪は俺に向けて手を挙げた。
「やあ。誰かと思えば、今朝ぼくと運命的な出会いをして、永久の盟友の契りを交わすことで大親友になり、お互いのことを知り尽くして相棒にまでなった明智開くんじゃないか」
「そうなの? 開くんが?」
「盟友の契り? 中二病的な?」
「いい組み合わせかも~」
などと、ざわざわする教室。
この俺が中二病にでも間違われたらどうするつもりだ。
俺は立ち上がって、
「違うよ。ただ、今朝道に迷って困っているところで偶然出会ったんだ」
「え? 開も道に迷ってたの? どおりであっちに行ったりこっちに行ったり案内が心もとないわけだ」
俺は怒りを抑えて満面の笑みを作り(それでもこめかみには怒りマークがあったと思う)、
「道に迷っていたのはキミでしょう? 案内しようにも目的地も聞いてなかったしね」
「そうそう。だからって、ぼくをあんなところやそんなところに連れ回さなくてもいいのに~」
こいつっ!
また教室中がざわざわする。
「慣れない近道を通ると、方向感覚がわからなくなるからね。ただ最短ルートを通っただけだよ」
おまえがいちいち厄介ごとに首をつっこんだ上での最短ルートをな。
さっと顔を寄せて、俺は小さな声で凪に言った。
「あとで話がある」
教卓の前から先生が凪に呼びかける。
「凪くん。自己紹介してくれないかな? さっそく友達ができたのはいいけど、おしゃべりは休み時間にしてください」
「はーい」
チラッと俺を見てウインクして、ふわりと軽い足取りで凪は教卓の前に行く。
凪は黒板に自分の名前をアンバランスな字で書き、
「はじめまして。ぼくは柳屋凪。世界平和が目標の、夢見る中学二年生です。好きな食べ物はもなかと羊羹。趣味は動物ごっこ。みなさん、どうぞよろしく~」
パチパチパチパチと拍手が起こる。
口々に、「面白いやつだな」とか「動物ごっこってなに?」とか「意外とカッコイイかも」とか「顔はかわいい系じゃない?」とかクラスメートたちは色々な反応を見せた。
柳屋凪。
俺には遠く及ばないものの、容姿は優れている方だろう。くせ毛も英国的な品の良さがあり、女子生徒の反応も悪くない。いや、むしろいい。「明智くんと仲がいいんだぁ」とか囁く声も聞こえるが、まだこいつが変人奇人の類だとはバレてないらしい。
ふっと、凪と目が合う。
にこっと微笑み俺に手を振る凪。
だが、無視。
この時点で、俺は悟った。
こいつ――柳屋凪は、俺の天敵になるだろういうことを。
きっとこいつに関わるとろくなことが起きないだろういうことを。
昼休みにでも話して、もう二度と関わらないように言っておこう。
授業のあいだの休憩時間には凪の周りに人だかりができ、いままでどこに住んでいたのかやなんで引っ越してきたのかなど聞かれている。
「え、凪くんってアメリカ出身なの?」
んなわけないだろ。
「自由な校風だったから日本学校の感じに慣れてないんだぁ。ちょっとカッコイイ」
「英語がしゃべれるっていうのもカッコイイよねー」
だから違うって。日本語が通じにくいだけで日本語しかしゃべれないやつだぞ。
「すっげー名前の友達いるんだな。バッファオーバーランって」
「なんか強そう」
それはコンピュータのプログラム用語だ。話が噛み合ってないぞ。
「凪くんってわたしたちとは暮らしてきた世界が違うって感じだよね」
「ステキ」
まあ、これで凪がおかしな言動をしても大丈夫になるんだろうし、俺が無駄にしゃべりかけられても俺まで変人とは思われにくくなりそうではあるのかな……。どうせすぐに変人扱いはされるんだろうけど。
やっとお昼休みになり、食堂で全校生徒同時の給食を食べた。給食を食べ終えた人から自由に食堂を出てもよいので、俺はタイミングを見計らって、凪にちょっと来るように言った。
誰もいない屋上の扉。
うちの学校は、屋上が解放されていない。恒常的に締め切られていて、ドアには鍵が掛かっている。そのため、屋上への階段やその踊り場、そしてこの扉の前には、生徒が来ることなんてほとんどない。机置き場になっているので、たまに使われなくなった机を置きにくる人がいるくらいか。
凪はスマホをいじりながら壁に背を預けた。
「ふむふむ。なるほろ。この学校では給食当番だけ食堂に残って片付けをするのか。白衣を持ち帰るのって面倒だよね~」
「そんなことはどうでもいい。おまえ、朝のあの挨拶はなんなんだよ」
「え? なにが?」
「とぼけるな。人のこと盟友の契りを交わしただの大親友だの相棒になっただのほら吹いて、あんなところやこんなところを連れ回したとか変な言い方しやがって」
「こんなところじゃなくてそんなところね」
「そっか。じゃなーい! んなもんどうだっていいんだよ!」
「なんだ、どうでもいいことで騒いでるのか」
「ちがーう! 騒いでもなーい!」
思わず大きな声でつっこんでしまった。顔を出して階段の下とかに誰もいないのを確認して、俺は凪に向き直った。
「とにかく、俺が言いたいのは、もう二度と俺に関わるなということだ」
「開は学校じゃ優等生のエリートなんだね。ひゅうひゅう」
「いや~。それほどでもないよ。て、話を聞け!」
凪は平然とした無表情で俺を見て、
「キミはぼくといるときだけ明るく陽気な素顔を見せてくれるよね」
「どこが陽気だよ」
俺のジト目を受け流し、凪は小首をかしげる。
「それで?」
「だから、俺には二度と関わるなってこと。俺はおまえみたいな変人と違って優等生を演じているんだ。イメージを壊したくない」
「大丈夫大丈夫。イメージなんて誰も気にしないって」
「俺が気にするの!」
凪はやれやれと手を広げて、
「探偵王子ってのも大変なんだね。世間のイメージに合わせたりとかさ」
「まあね。色々と大変なんだ。でも、俺が探偵王子なのは学校のみんなは知らな……」
あ。
俺は呆けたように口を開いたまま凪を見る。
凪は俺の顔をじーっと見て、
「やっぱりだ」
「いや、そのこれは」
「キミ、歯並びがいいね。いままで虫歯になったことないでしょ」
ズコーとこける。
「そっちかよ。虫歯になったことはないけど、そうじゃなくて、俺が探偵王子なの知ってたのか?」
「写真を見て、目元がそっくりくりそつうそつきキツツキだと思って」
「そうかよ。ただうそつきでもキツツキでもないからな」
こうなったら仕方ない。
俺は、バンと壁に右手をついて、壁ドンの形を取って凪をにらむ。
「いいか? このことは絶対誰にも言うなよ? 言ったらただじゃ済まさないからな」
「やだ~。開ったら、ただじゃ済まさないって、どうするつもり?」
変な言い方すんな! とつっこもうとしたときだった。
こういうときに限って、足音がほとんどせず、(足音がしないくらいに体重の軽そうな)一年生の女子がイスだけ持って階段の踊り場に現れた。鼻歌気分で歩いていた彼女は、俺と凪を見ると、顔を真っ赤にして走って行ってしまった。
「きゃ。いやーん。すごいの見ちゃった」
「ちょっと! 待って! 誤解だから!」
俺が声を上げてももう遅い。
彼女は光の速さで去って行き姿も見えない。
はあ。俺はため息をつき、凪をにらんだ。
「おい! どうしてくれるんだよ! おまえが変なこと言うから、あれ絶対変な誤解しちゃってるよ!」
「気にするなよ。ぼくたちは相棒の大親友、なにがあっても二人で乗り越えようぜ?」
「うわあ。やめてくれ」
頭を抱えてもだえる。
くそう。誤解を解いて回らないと。
「おまえ! 学校では俺に話しかけるなよ! 絶対だぞ! 俺が探偵ってことも秘密だからな!」
捨て台詞のようにそう言い残して、俺は踊り場から降りて行った。
これから誤解を解かなきゃ、と思って教室に入る。
すると、最悪なことに、俺と凪が壁ドンしてたとか二人がどうこうという変な噂があっという間に広がっていた。悪い噂が広がるのは本当に早い。
女子の三人組が俺をチラッと見て、よくわからない単語を使ってオタクトーク? みたいなのをしてたり、変な目で俺を見て避けるようにする男子がいたり、散々だ。
「開ちゃん。さっき凪くんと会ってたんだって? もう友達になったんだ」
ちょうど、幼馴染みのクラスメートである、伊倉晴気(いくらはるき)――通称晴ちゃんに話しかけられた。
晴ちゃんは誰にでも分け隔てなく親切で常に自然と人の輪の中心にいるような人だ。それでいてでしゃばらず、みんなを優しい微笑みで見守るお母さんのような、面倒見のよい俺の親友である。背が高いけど柔和な顔なので安心する雰囲気がある。
でもやっぱり晴ちゃんはわかってくれてる。俺はみんなの誤解を解けるように少し声を大きくして言った。
「昼休みだからって学校の案内を頼まれてさ、屋上の扉のところを案内してるとき、机が倒れてきちゃって。凪くんをかばって入ったら、机に頭をぶつけちゃった」
と、苦笑いを作る。
晴ちゃんは俺の頭に手をやって、
「ちょっと腫れてるね。大丈夫?」
「うん、全然平気」
「開ちゃんは優しいね。放課後はおれも時間あるし、おれが凪くんを案内するよ。開ちゃんは休んでて」
「ありがとう。晴ちゃん」
いろいろわかってフォローしてくれたんだ。晴ちゃんが神様に見える。
クラスメートたちも、「なんだ、やっぱり見間違いか」とか「まあ、おれたちの明智くんはクラスのアイドルだし、いままでだってスキャンダルが出ても全部うそだったしな」とか言っている声がする。「明智くんに限ってないとは思ってた」って言葉に、「でも凪くんの方にはその気があったりして。ぐふふ」とかいう変な女子がいたけど、とりあえずよかった、誤解が解けたみたいだ。ちなみに、俺は男子にも女子にもアイドル扱いされていて、たいていのことは微笑んでいればいいだけなのだ。クラス全体に過保護にされているというかなんというか。
まあ、評判も戻ってきたみたいだし、よしとしよう。
ガラッと、ドアが開いた。
なんだ?
ドアの方を見てみると、そこには天敵・凪がいた。
凪は俺に向かって走ってきて、楽しそうに言う。
「ねえ、開。放課後、開の家に遊びに行っていい?」
「ごめんね。ちょっと用事があって。また今度ね」
「え? 用事って、探て――」
ごりっと、思い切り凪の足を踏む。
「いたっ」
「ん? たん? そうそう、端的に言うと、塾だよ。塾に行かないといけなくて」
こいつ、探偵のことは言うなってあれほど言ったのに。つーか、学校ではしゃべりかけるなって言っただろ!
「放課後はクラスメートの伊倉晴気くんが校内を案内してくれるってさ」
「校内のことはもう大丈夫。ぼくも開と行くよ」
「だから俺は塾に――」
「探」と、凪はそれだけ言って俺を見る。
「わかった、わかったよ。じゃあ放課後ね」
俺は席を立ち上がって、凪の横を通り過ぎ様、やつの耳元で言う。
「これ以上は学校で話しかけるなよ。放課後まで待ってろ」
「ラジャー」
凪は敬礼して俺の背中を見送る。
――そして放課後。
校舎内では、執拗に凪がしゃべりかけてきて、俺は当たり障りなく微笑んで相槌だけ打ちながら歩く。
凪といっしょに校門を出る。人通りが少ない道になり、知り合いが誰もいないのを確認して言った。
「おまえ! 俺には二度と話しかけるなって言っただろ?」
「相棒だったら話しかけるじゃないか。さ、探偵事務所に行こうぜ」
「悪いけどおまえを連れて行くつもりはない」
「そんなこと言ってツンデレなんだから」
「そうじゃないって言ってるだろー」
俺は走り出す。
笑顔で凪も追いかけてくる。
「うわあ、ついてくるなー」
「相棒じゃないか~」
こうして、俺は凪と出会い、友達になった。
つづく
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