お向かいさんが引っ越してきた

 今日は休日。

 俺は午前中からのんびりと探偵事務所で過ごしていた。

 そして、逸美ちゃんお手製のお弁当をいっしょに食べて、もう午後になる。

「いやぁ。こうなんにもない平和な日って最高だよね」

 ぐっと腕を上げて背を伸ばす。

「そうね。ヒマな一日、読書にふけって開くんとまったり探偵事務所で過ごすのって最高かも」

「それを言うなら、日がな一日、だよ? 確かにヒマだけどね」

「うふふ。ヒマかも~」

「だねー」

 あはははは、とふたりで笑い合った。

 このまま帰るまで依頼人も来ないでほしいな。

 そう思ったときだった。

「かーいーくーん!」

 外から声がする。

「まったく、会いたくないやつがやってきたか……」

 ため息交じりの俺とは反対に、逸美ちゃんはにこにこと微笑む。

「あら? 凪くんの声ね」

 そう、この声は凪のものなのだ。

 逸美ちゃんはドアに向かって、

「はーい。どうぞー」

 と、呼びかける。

 しかし、反応がない。

「おかしいわ~。凪くんの声、確かにしたと思ったんだけど」

 すると、また外から声が聞こえる。

「かーいーくーん!」

「いいから入ってこいよ」

 俺が言っても、ドアは開く気配がない。

「かーいーくーん! あーそーぼ」

 ちょっとイライラしながら「小学生かよ」とつぶやき、俺がソファーから立ち上がると。

「かーいーくーん! あーそーぼ」

 ん?

 ここで、俺は声の距離感のおかしさに気付く。

「もしかして――」

「開くん? どうしたの?」

「ちょっと行ってくる!」

 GO!

 探偵事務所を飛び出して、俺は全力で階段を駆け下りる。

 一階に来て、建物を出る。

「かーいーくーん! あーそーぼ」

 やっぱり。

 探偵事務所の向かいの家。

 その家のインターホンを押してる凪の姿が目に入った。

「あれ~。おかしいな~。開のやつ、今日はいないのか?」

「いるよ! ここに」

 と、凪の背中に言ってやった。

「なんだ。いるのか。じゃああとは出てくるのを待つだけか」

 俺の声に返答して、凪はまたインターホンに手を伸ばす。

 サッと凪の横まで行って凪の腕を掴む。

「待て待て」

 凪は平然とした顔で振り返る。

「お? 開。そこにいたのか」

「さっきからそう言ってんだろ!? なんでお向かいさんの家のインターホン鳴らしてんだよ! 迷惑だろ?」

「うっかり引っ越したのかと思ったよ」

「てっきり、だろ。引っ越しなんてしてねーよ。おまえ、昔から何度も来てるのになんで間違えるんだよ」

「いや~。てっきり間違えちゃった」

「今度はうっかりでいいんだっ」

 やれやれと凪は手を広げて、

「ああ言えばこう言う」

「それはおまえだ。俺はな? おまえがいちいち間違えるからいろいろと訂正してやってるだけなんだよ。世の中のためにな」

「開ってば、ぼくだけじゃなくて世の中に対してまで押し付けガマガエルだ」

「押し付けがましい、だ! て、俺は押し付けがましくなんかなーい!」

 ハッ。

 しまった。こうして外で大声を出していたらご近所迷惑になる。

 俺は凪の腕をつかんで引っ張る。

「人んちの前で騒いでたら迷惑なるから、事務所の中に入るぞ」

「でも、ぼくこの家から人が出てくるの見たことないよ」

「それはおまえが……」

 あ! 俺は思い出した。

「そういえば、ここんちの旦那さんが仕事の都合でアメリカに行くっていうんで、家族みんなでそっちに住むからしばらく家を空けるんだった」

「じゃあいくらピンポンしても大丈夫だね」

「確かに」

 凪はインターホンを何度もピンポンピンポン鳴らす。

「う~ん、気持ちい~」

「そのくらいにしとけよ。あはは」

 凪も嬉しそうにインターホンを押していると、急にドアが開いて中から人が出てきた。

「うるさーい!」

 思わず俺と凪が固まる。

「キミたち一体誰なんだよ!?」

 そう怒鳴ってきたのは、大学生っぽい雰囲気のお兄さんだった。どこからどう見ても普通。ちょっと冴えないオーラが出ているだけ。あとちょっとヒゲが濃い。

 俺は彼の言葉に答える前に、ビシッと言い返す。

「あなたこそ誰なんですか!」

 しかし。

 ズコっとその大学生はこける。

「あれ?」

「あれ? じゃないから! なんでボクが聞き返されなきゃならないんだよ!」

「だって、あなた人の家に勝手に上がり込んでいたから。ここの家の人たちはいまアメリカに行っているんですよ」

 俺が丁寧に説明してやると、その大学生は「なるほど」と息をつく。

「小山さんとは知り合いだったか。なら教えてあげるけど、ボクは小山さんの親戚の大分良人(おおいたよしひと)。いまは大学一年生。大学入学を期に上京してここに下宿させてもらうことになったのさ」

「なんか見た目からなにから普通。なんの特徴もありませんな。ヒゲは濃いけど。あ、でも名前は人が良いと書いて良人さんですか」

「普通に逆から読まずに良い人でいいだろ」

「お。それだと、だいぶいい人ってことですな」

「あはっ。凪うまい」

 良人さんはゴホンと咳払いをして、俺たち二人に聞いた。

「それで? キミたちは誰なんだい?」

「人に名前を聞くときはまず自分から名乗るのが礼儀でしょ」

 と、凪に言われる。

「さっき言ったでしょ! ボクは良人」

 とほほ、と良人さんは困り顔で答えた。凪のペースに慣れていないからか、本当に困っているようだ。

「それでキミは?」

「ぼくは凪。それでこっちが開。二人共高校二年生」

「開です。向かいの探偵事務所で働いています。ちなみにこいつはただの知人なので探偵事務所の人間ではありません」

「ふーん。そこで働いてるのか。若いのに探偵なんて。ていうか、あのお姉さん以外にもあそこで働いてる人いたんだ」

 あのお姉さん?

 つまり、逸美ちゃんには引っ越してきたときに挨拶していたのか。

「あの。探偵事務所でいつも番をしてる逸美ちゃんも大学一年生なんですよ。大人っぽく見えるかもしれませんけど」

「え? そうだったの? てっきり上かと」

 まあ、気持ちはわかるけどね。

「良人さんも大学一年生だと、十九歳ですよね」

 しかし、良人さんは気まずそうに苦笑いする。

「いや~。実は、一浪したから今年で二十歳なんだ。だから、その逸美さんよりひとつ上になるかな」

「そうだったんですか」

「どこの大学に入ったの?」

 微妙に聞きにくいことを凪が率直に聞いた。

 でも、わざわざ一浪して上京したんだから、本人も納得できる大学なんだろう。

 良人さんは照れくさそうに、

「まあ、ハッキリとは言えないけど、T大さ」

「え!? T大って、Tから始まる大学って言ったら俺ひとつしか思い浮かばないです」

「そう? あはは」

 お調子に乗ったような笑い方をする良人さん。

 凪はさらにつっこんで聞く。

「イニシャルじゃわからないよ。どこなのさ」

「しょうがないなあ。特別に教えてあげるよ。誰にも言わないでくれよ」

 良人さんは渋い声でかっこつけて、

「T・国際東京バイオ音楽科学大学だよ」

 俺と凪は声を揃えて言った。

「そのTって一体……」

 ていうか、音楽なのか科学なのか、色々謎だ。

 良人さんは朗々とご教授してくれる。

「Tは栃木のTだよ」

「なんで栃木なんですか? 東京って言ってるじゃないですか」

「ああ、栃木ってのは学長の名前さ」

 なんだそれ。

 それはいいとして、俺は良人さんに聞いた。

「でも、いつから引っ越してきたんですか?」

「昨日だよ。夕方になっちゃったからね」

「俺もう家に帰ってたから昨日は会わなかったのかもしれないですね」

 逸美ちゃんも、昨日の今日だから俺に報告するの忘れてたんだろう。

 そのとき、車のエンジン音が聞こえてきた。

 見れば、トラックがこちらに走ってきて、家の前で停車した。

「ちょうど引っ越しの荷物が来た」

 と、良人さんがトラックに近寄る。

 トラックからは引っ越し屋さんが降りてきた。

「ちわす。どうも」

「こんにちは。大分です」

「大分良人さんですね。引っ越しの荷物運びますね」

「お願いします」

「なにをどこに置くのか、指示お願いします」

「はい」

 引っ越し屋さんと良人さんが話していると、家の中から凪が呼びかけた。

「みんな~。大きな荷物からこっちにお願いします~」

「はーい!」

 元気よく引っ越し屋のお兄さんが返事する。

 監督みたいに突っ立っていた良人さんが凪を二度見した。

「て、凪くんなに人んち勝手に上がり込んでんの! ちょっと待ってよ!」

 引っ越し屋のお兄さんが爽やかに俺に笑いかける。

「お兄さんのお友達? お手伝いしてくれるなんて、偉いね」

「いえ。あはは」

 ちょっと苦笑い。

 さて。

 凪が変なことしてないか気になったので、俺も「お邪魔しまーす」と家に上がって凪と良人さんの元に駆けて行く。

「凪ー?」

 部屋を見て回っていると、やっと凪を見つけた。

「こら、凪。勝手に上がっちゃダメだろ?」

「あ、開。見てよこれ」

 どうやら凪が持っているのは雑誌のようである。

「ん? なに?」

 俺が見ようと近づこうとしたら、

「うおぉーい! ちょっと待ったー!」

 バッと凪の手から雑誌を取り上げる。

「なんだ?」

「凪くん? ダメじゃないか。人の物を勝手にいじっちゃ。ていうか、人の家に勝手に入っちゃダメだよ? いいかい?」

「うん。わかったよ。で、その本……」

「あー! っと」

 と、凪の言葉を遮るように声を上げる。

 なんか聞かれちゃまずいようなことなのか? まあ、こういうのは触らぬ神にたたりなしだよな。

 良人さんはため息ついたあと、説教するように言う。

「あのね、キミもう高校生でしょ? だったら、もっと常識を持たなきゃ。大学生になったら苦労するよ? ボクもね、高校生の頃はやんちゃしてさ。でも――」

 俺は長話してる良人さんに教えてやる。

「あの」

「なんだい? 開くん」

「凪、もうこの部屋にはいませんよ」

「えー!? どこに行ったの?」

「さあ」

 良人さんはぴゅーんと部屋を飛び出してどこかに行った。

 やれやれ。これはあの二人が引っ越し屋さんの邪魔をする展開になるんだろうな。

 玄関の方へ行ってみると、引っ越し屋さんが次々に荷物を運び込んでいるところだった。

 しかしよく見てみれば、考えればわかることだけど家電なんかは元々この小山さんの家にあったものを使えばいいから、良人さんの荷物はそう多くなかった。

 意外と多趣味なのか、スキー板とか野球のバットやグローブやちょっとした楽器なんかも運ばれてくる。こういうかさばるものを運ぶから引っ越し屋さんを頼んだのか。

「なんだ?」

 二階から声が聞こえる。

 二人はあっちにいるのか。

 俺も上がってみると、そこには引っ越し屋さんも含めた三人がいた。

「お兄さん。ここはぼくの部屋にするから、ベッドは隣の部屋に運んでもらえますか?」

「いいっすよ」

 凪の頼みも明るく答えるお兄さんに、良人さんが訂正する。

「いや、この子の部屋はないのでベッドも動かさないで結構です」

「そうっすか?」

「え~」

 不満そうに声を漏らす凪。

「凪くん、ボクの部屋の片づけしてもらうんだから、おとなしくしててね」

「じゃあぼくの部屋は?」

「ないよ! キミのうちじゃないでしょ」

「でも良人さんのうちでもないよね?」

 う、と良人さんは一瞬言葉に詰まる。

「そ、そう、だけど……。でもボクはここに下宿するからいいの。ボクの家みたいなものなの」

「ああ言えばこう言う」

「それは凪くんでしょ」

 引っ越し屋さんのお兄さんがちょっと困ったように、

「それで、どうすればいいですか?」

「あ、そうだ」と動き出そうとする良人さんがもたもたしてる隙に、凪がタタタっと部屋を出て引っ越し屋さんのお兄さんに言う。

「じゃあそっちの物置になってる部屋をぼくの部屋にしてください」

「だからダメ! そこはボクの部屋にするの!」

 え、あそこを良人さんの部屋に!?

 俺は良人さんと凪の間に割って入った。

「ちょっと待ってください! あそこの部屋は物置のままにしてください」

「えっと、開くん。どういうこと?」

「あの部屋からは事務所の中が見えるんです。だから物置じゃないと!」

 凪がこそっと俺に耳打ちする。

「見られちゃマズイことでもしてるの?」

「してないよ! ただ、探偵事務所って守秘義務があるくらいに依頼主の秘密を大事にしないといけない場所だからね。ここに良人さんの部屋があっちゃ困るんだよ。小山さんもそこは気を遣ってくれていたところなんだ」

「そうだね。ぼくが遊びに行ったときに良人さんと目が合ったら興ざめだよ」

 良人さんはジト目で俺たちを見て、

「開くんの言い分はわかるとして、凪くんにそこまで言われる筋合いはないような……」

「そういうことなので、良人さん」

「はい」

「良人さんの部屋はあそこなんてどうでしょう?」

「え? あっちは小山のおじさんとおばさんの寝室だったような」

「いいじゃない。どうせいまはいないんだから」

 と、凪がけしかける。

「あ、それなら一階の和室もいいんじゃないですか?」

「そうは言っても、ボクの机もあるから和室はちょっと……」

「机なんか持ってこなくてもどこの家にもひとつはあるって」

 凪の言うことも一理ある。

「確かにわざわざ持ってくるものでもないよな。それで勉強ができるようになるわけでも参考書が頭に入りやすくなるわけでもないのに」

「そんなのボクの勝手でしょ。ボクはあの机じゃないと勉強できないの」

 良人さんに抗議されたが、凪は横でちょろちょろしている。

「まあ開もそう言わずに。この引き出しの中には大事な息抜きのご本が入ってるからね」

「な、なんでそのことを!」

 ガッと良人さんが凪の肩に腕を回して、またなにやら二人でこそこそしゃべってる。なにやってんだ。

「そうだ。ねえ二人共、外の物置に机を置くってのはどう?」

「開くん、だからボクはあの机じゃないとダメなの。はあ、もう邪魔しないでくれよ」

 がっくり肩を落とす良人さん。

 凪はまたぴゅーんと部屋を飛び出した。

「あ、凪くん! 待って!」

 慌てて追いかける良人さんは、タンスの角に小指をぶつけて「あひっ」と悲痛の声を上げる。

「やれやれ。凪の相手は大変そうだな」

 さて、俺は俺で引っ越し屋さんのお兄さんが困らないように、変わって指示出しをしてやろうかな。

 そして。

 俺は凪といっしょになってふらふらして遊んでいる良人さんに代わってテキパキと指示を出してほとんどの荷物を運び終わった。

 途中、何度も「わー!」とか「やめてー!」とか「なにしてんのー?」とか「凪くぅーん」とかいう良人さんの声が聞こえたが、俺が頑張ったおかげでだいぶ片付いたぞ。

 引っ越し屋さんのお兄さんが良人さんの元に行った。

「どうも。これで荷物はすべて入れました」

「え。そうなんですか? いつの間に」

 驚く良人さんに教えてあげる。

「俺が代わりに先導したので」

「そうかい。ありがとう、開くん」

「いえいえ」

 凪は眠そうに背伸びして、

「あーあ。ぼく良人さんの相手して疲れちゃったよ」

「それはこっちのセリフだよ」と良人さん。

「じゃあ片づけの手伝いも終わったし、ぼくもそろそろ帰ろうかな」

「邪魔してただけでしょ。そうだね、もう帰ってね」

 と、お疲れ気味での良人さんである。

 俺は良人さんに小さく会釈する。

「今日は失礼しました。でも片付いてよかったですね」

「開くんありがとう。またね。これからよろしく」

「はい。こちらこそこれからよろしくお願いします」

「じゃあまたね~」

 凪が手を振り外に出て、俺も外に出た。引っ越し屋さんのお兄さんもトラックに乗り込み、俺たちはそろって良人さんの家を出た。

 良人さんは玄関で見送ってくれて、バタンとドアを閉めた。

 凪は頭の後ろで手を組んで、

「開、ぼくはお疲れだから帰るよ」

「うん。でも、これからは良人さんにも迷惑かけるなよ」

「大丈夫。あの人ちょっとやかましいけど、ぼくも迷惑とは思ってないから」

「おまえが思われてんだよ!」

「まあ、あの良人さんは人がいいから仲良くやれるさ」

「人がいいじゃなくていい人、だろ?」

「そう。だいぶいい人」

「おまえな。あんまり本人には言うなよ。じゃあな」

「バイバ~イ」と凪が帰る。

 ふう。

 凪も見送ったことだし、俺は探偵事務所に戻って逸美ちゃんの隣に座った。

「開くん、随分ゆっくりだったね。凪くんは?」

「帰ったよ。新しく引っ越してきたお向かいさんに会ってさ、ちょっと引っ越しのお手伝いもしてきたんだよ」

「そうなの。偉いわね」

「まあね。良人さんも凪といっしょに遊んでたから仕方なくね」

 それで、と話を続けようとしたところ、向かいの家から叫び声が聞こえる。

「えー! ボクの部屋ここになっちゃったのー!? な、なんだこの本は! あれ? あれ? ボクのお宝雑誌がない! どこだー」

 あ……。

 勝手に部屋決めちゃったのまずかったのかな。お宝の雑誌ってのはなんのことだか知らないけど、まあいっか。凪が知ってるだろうからまた会ったときにでも。

 まだなにやら叫び声が聞こえたけど、聞き取れなかった。

 逸美ちゃんはふと窓の方を見て、

「お向かいさん、元気ね~」

「そ、そうだね……」

 今日は早く帰ろう。なんか言われる前に。


おわり

AokiFutaba Works 蒼城双葉のアトリエ

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