今年も蚊と戦った
毎年毎年、夏になると戦わなければならない相手がいる。
プーン、と音を立てて飛んで来て、気づくと俺のそばにいる。昼には身体の周りをウロチョロと、夜には耳元でやかましく、いつもすぐそばでその存在をアピールするのだ。そして、いつのまにか血を吸っているのである。
そう。俺の戦わなければならない相手――それは、蚊だ。
なにも俺だけが戦っている相手じゃないはず。きっと誰もが、招き入れた覚えのない蚊と戦った経験があると思う。
俺の名前は明智開。
世間からは探偵王子と呼ばれる高校二年生だ。
夏もそろそろ終わるかというこの日――
少年探偵団の六人は、事務所内に入り込んだ蚊と戦っていた。
「どこ行った?」
俺の質問には答えず、みんな目と耳を研ぎ澄ませている。
うちの事務所に集まる少年探偵団のメンバーは、個性派ぞろいだ。その能力を持ち寄っても、蚊は簡単には捕まらない。なんか肘の辺りを刺されちゃった気がしてかゆいし、これは必ず捕まえねばならない。
許すまじ、蚊!
ここで、この探偵事務所の管理をしている大学一年生のお姉さん・逸美ちゃんが、肩の力を抜いて、
「わからなーい」
降参だというように両手を挙げる。
逸美ちゃんはのんびりおっとりマイペースな天然お姉さんだから、こういう熾烈な戦いには向いていないのかもしれない。
そのとき、情報屋をしているくせ毛の少年・凪が、ビシッと逸美ちゃんを指差した。
「逸美さん、そこだ!」
「どこ?」
くるりと振り返り、周囲をぐるぐる見回す逸美ちゃん。
「あっ!」
自分の肩の上にいるのを見つけた逸美ちゃんは、自分の肩をバシンと叩く。
「痛~い」
蚊に逃げられた逸美ちゃんは自分の肩を叩いてしまった。
「よし、そこだ!」
俺もジャンピングでとっ捕まえようとするが、かわされた。
一般的に、みんなは蚊をどんな方法で捕まえるだろうか?
基本的に俺は握るように捕まえるタイプなのだ。うちの母がそんな感じで捕まえるからそれが移っただけなんだけど、逸美ちゃんと小学生四年生の女の子・ノノちゃんは両手でパチンと叩くベーシックなタイプだ。そして凪は丸めた新聞紙を使い、交渉人をしている高校二年生の作哉くんはパンチする(いくら作哉くんの腕っぷしが強くても絶対倒せないと思うんだけどな……)。最後に、中学三年生のお嬢様・鈴ちゃんはスプレーを構える。
俺は自分の手のひらを見つめてつぶやく。
「くそう。いつもならひょいと捕まえられるんだけどな」
自分でもなかなかうまいはずだと思ってるんだけど、今日の蚊は俺の近くに来ないのもあり捕まえにくい。
逸美ちゃんがまた「あっ!」と声を上げた。
「いたー」
バッと踏み込む。
が。
床に落ちていた新聞紙が滑って、ズテン、と大きな音と地響きを伴って、逸美ちゃんはすっ転んでしまった。
しかも、ゴン、と頭からいったみたいだ。
「大丈夫? いま完全に頭打ったよね?」
「開くぅーん」
涙目の逸美ちゃん。
駆け寄ろうとしたが、逸美ちゃんはそれだけ言うとカクリと首をもたげて気を失った。
凪はそれを見て、悔しそうに言葉を漏らす。
「仲間がひとり、やられたか……」
「おまえが新聞紙を変なところに置きっぱなしにしたからだろ!?」
「ぼくのせいにしないでくれよ。新聞なんてみんな読むだろう?」
俺は凪の持っている新聞紙を丸めた棒を指差した。
「おまえがそれ作ったときにその辺に捨てたんだ!」
「ちぇ。なんでもぼくのせいか。確かにぼくが捨てたに違いないけど、片付けなかったのは開だろうに」
「捨てたやつが片付けるんだっ!」
俺と凪がいがみ合っていると、鈴ちゃんが仲裁に入った。
「まあまあ。悪いのは全部凪先輩なのはいつものことですが、いまはそんなことしてる場合じゃないです」
「そうだね。共通の敵がいるんだもんな」
「うん。開なんかに構ってるヒマなかったぜ」
「テメーまだ言うか!」
もう我慢ならず凪の頭をぐりぐり攻撃して、凪が倒れたので俺も気が済んだ。
さて。
俺が改めて蚊を探して周囲を見回すと、今度はノノちゃんが言った。
「いました! あっちです!」
「どこだ!」
作哉くんが身軽に飛び、ノノちゃんの指差す先に行く。
「ここか! ドリャ!」
武闘派の作哉くんは、蚊に向かって思いっきりパンチをした。
シュと音が鳴るほどだ。
しかし、当然ながらパンチじゃ蚊には効かない。ひらりと作哉くんのパンチを受け流した蚊は、そのまままたどこかへ飛んで行った。
「ちくしょう! 普段ならアレで一発なのによ!」
嘘だろ……。
いくら作哉くんの腕っぷしが強くても、さすがに蚊には通じないよな。さらに作哉くんのヤクザみたいに怖い顔も、相手が昆虫では役に立ってくれない。
まあ、捕まえ方は人それぞれ。
すると、またノノちゃんが動いた。
「はい!」
パチン!
いい音を鳴らして手を叩き、ゆっくりとその手を開いた。
「やったかな?」
そう言いながら開かれたノノちゃんの手。
だが、そこには蚊はいなかった。
「ダメでした」
がっかりするノノちゃんに、俺は声をかけてやる。
「残念。ドンマイ、ノノちゃん」
「はい。次こそつかまえます」
ノノちゃんはすぐに切り替え、胸の前で両手の拳を握る。
それで、今度はどこに行ったんだろう。
「しかしさ。ぼくは思ったよ」
「なんですか? 先輩」
鈴ちゃんに聞かれて、凪はもったいつけてから答えた。
「これが蚊だからいいけど、ゴキブリが相手だったらみんなこんなにやる気にはならなかっただろうね」
「う……」
「確かに……」
俺と鈴ちゃんは急にテンションが下がる。
凪は鈴ちゃんを見て、
「この中でゴキブリ退治できなさそうなのは、鈴ちゃんとノノちゃんか。子供組は度胸がなくてダメだろうね」
「あたしは子供じゃないです! ゴ、ゴキブリはダメだけど……」
抗議する声も力が入らない鈴ちゃんである。
「子供だよ。よく小児科って言うあれって、小児は十五歳以下を指すんだ。ちなみに七歳以下が乳児。つまりここでは鈴ちゃんとノノちゃんは小児だから子供なのさ」
なるほど。そういう区分と考えもあるのか。
しかし鈴ちゃんは反発する。
「あたしと先輩は二つしか歳が変わらないじゃないですか! あたしなんて来年には十六歳になって結婚もできるんですよ」
「ぼくも来年には結婚できるのか。ぼくたち、来年結婚できるんだね」
凪の言葉を聞いて、急に鈴ちゃんは顔を赤くする。
「え! べっ、別にあたしっ……! せ、せ、先輩と結婚するわけないでしょ! バカー」
恥ずかしそうに顔を押さえてトイレに駆け込む鈴ちゃん。
鈴ちゃんはいわゆるツンデレって感じで、自分からデレることはないけど、凪のことを意識しているからな。
そんな鈴ちゃんを見て、凪はぽつりとつぶやく。
「どうしたんだ? あっちにも蚊がいたのか? さっぱりわからん」
「鈴さん、おトイレなら殺虫スプレーは置いていってくれたらよかったのに」
と、ノノちゃんが眉を下げる。ノノちゃんはまだ小学生だからそういう機微はわからないのだ。
凪がノノちゃんに向き直って、
「あれじゃ匂いは消せないしね。ははっ」
「そうですよね、あははは」
馬鹿なことを言って笑い合っている凪とノノちゃん。
そして、凪は作哉くんに言った。
「でもさ。やっぱりこうなると、ゴキブリ退治できそうなのって、逸美さんと開とぼく、それに作哉くんだけって感じだね。ね、作哉くん?」
凪に振られて、作哉くんはそっぽを向く。
「うっせェぞ。ゴキ、ゴキブリなんかはよ……、その、出ないようにしときゃ問題ねェんだからよ」
「作哉くんはゴキブリが苦手なんです。ね、作哉くん?」
ノノちゃんに言われて、作哉くんは口をとがらせる。
「ちげーしよ、オレは怖いモンなんざねェが、ありゃ住む世界が違うじゃねェかよ!」
凪はにんまり笑って、
「そうかそうか。作哉くんはゴキブリが怖いか。うん、人間苦手なものや怖いものは誰にでもあるって。作哉くんみたいな怖い顔でも、怖いものがあったか。みんなこの地球に共に暮らす仲間なのに。うふふ」
和んだような凪に向かって、作哉くんが一気に駆け寄り、パンチした。
「うるせーんだよ! オレの顔は関係ねェだろうが! ったく、共に暮らす仲間を退治しようとしてるやつがなに言ってやがる」
凪のやつ、今度は作哉くんに殴られて気を失ったか。
俺はため息をついた。
「はあ。バカバカしい。さあ、三人になっちゃったけど、蚊を捕まえよう」
「その前に、探偵サンはなんかねェのかよ? 苦手なもんとかよ」
作哉くんに聞かれるけど、パッとは思いつかない。
「俺もゴキブリは苦手だけど、怖がるほどじゃないしなぁ」
「あのな? オレは別に怖いとか言ってねェからな?」
「ごめんごめん。そういう意味じゃ。ええと、そうだな。俺は……。ええと……。あ! たぶん、そういうのだとネズミはダメかも」
「ネズミ?」
「ネズミさん、かわいいですよ?」
首をかたむけている作哉くんとノノちゃんに、俺は説明する。
「うん。ハムスターとかならいいんだけどさ、ネズミってゴキブリとかに比べてサイズあるじゃん? だから、可哀想でつぶすのもできないし、野生のは不衛生な気がして手で捕まえるのも嫌だしさ」
「はーん。そうか」
と、作哉くんはすでに別の方向を見ている。
なんだよ、そんなに興味ないなら聞くなよ。
ちなみに、逸美ちゃんはハチが苦手だ。窓を開けたときたまに入ってくるハチやアブなんかは怖がって俺にくっついて離れなくなる。おかげで逃がすように動くのも難しいんだけど。
あと、鈴ちゃんは苦手ものが多過ぎてよく把握してないし、凪はなにが苦手なのかもよくわからない。あいつに苦手なんかあるのだろうか。
すると、俺が考え事をしているうちに、作哉くんは動き出した。
「いたぜ! ハッ!」
と、パンチする作哉くん。
だが、やっぱり蚊は倒せない。それじゃダメだって。
今度はノノちゃんの頭の周りに飛んでいる。
「はいっ! はいっ! はいっ!」
ノノちゃんはパンパンパンと何度も手を叩くけど、蚊はすばしっこくて全部外れだ。
最後に、蚊は俺の前にやってきた。
「よう……5分振りだな……」
俺は蚊をにらみつけ、集中して、一気に手を伸ばした。
「どうだ!」
ぐっと握りしめた瞬間、なにかがこっちに向かって飛んできた。
これは、凪の丸めた新聞紙!
「たりゃ!」
と、凪が叫ぶ。
ポフ。
俺の顔面に直撃する凪の新聞紙。
「あれ? 確かにいま、蚊がいたと思ったのに、おかしいなぁ。ん? あ、開くんじゃないか……」
ゆっくりと手を開いて、俺は自分が捕まえた蚊を確認する。
うん、ちゃんと捕まえられたみたいだ。
さてと。
俺が凪を見ると、凪は苦笑いでそろそろと後ずさる。
「開くん、どうしたのさ。大親友のぼくをにらむなんてさ。鬼のように怖い顔をしているよ? やめてよ~。いまはキミが蚊を捕まえたことを、みんなで祝おうじゃないか」
「テメー……」
「いや、だからさ。ぼくもこうして反省も……」
「待てー!」
「うわー! 鬼が怒ったー!」
「こら! 凪ー!」
「ごめんってばー」
俺が凪を追いかける横で、逸美ちゃんが目を覚ます。
「ふぁ~。よく寝た~。あら? 開くんと凪くん、追いかけっこしてるのね。気をつけるのよ~。うふふ。今日も二人は仲良しさんね」
その横に作哉くんとノノちゃんが来て、
「あれは仲良しとは違う気がします」
キリッとした顔で俺と凪を観察するノノちゃん。
対して、作哉くんは凪を見てため息をつく。
「なるほど。あいつが怖いのは、探偵サンか。まあ、結局こりねェんだけど」
俺はようやく凪を捕まえて抑え込み、また頭をぐりぐり攻撃してやる。
「まったく。おまえはふざけたことばっかりして」
「悪かったよ。もうこんなの使わない」
と、凪は丸めた新聞紙を投げ捨てる。
「そうそう。そんなので蚊は捕まらないんだから」
「だったらさ、開の捕まえ方をぼくに教えてよ!」
「俺の捕まえ方? 別にいいけど。本当にただぎゅっと握って捕まえるだけだから簡単だしさ」
「おお! やってみせておくれよ」
「うん、よく見てろよ。フッ」
さっと手を伸ばし、ぎゅっと握る。
「ほうほう。なるほど。こう、ぎゅんと伸ばすんだね」
と、凪が手を伸ばす動きをする。
「ああ。あとはつかむだけ」
「これならぼくにもできそうだぞぅ」
そのとき。
俺の視界にまた蚊が入った。
「まだいたのか!」
「蚊は一匹いたら百匹はいると思えと言うしね」
「それはゴキブリだろ?」
「言えてる」
と、凪は適当な返事をする。
しかし、蚊までの距離はちょっとあるか。
「凪、あっちに行ったぞ」
「任せとけ。今度はぼくがやってみる」
「一発で決めろよ」
「おう」
蚊はトイレのほうに飛んでいく。
不規則な動きをしながらも、蚊はそのままトイレの壁に止まった。
俺は息をひそめて凪に指示する。
「これは、蚊が動いた瞬間がつかむタイミングだぞ」
「わかった」
そして、蚊が動いた。
「いまだ!」
「いっけー」
凪が手を伸ばした――次の瞬間。
トイレのドアが開いて、中から鈴ちゃんが出てきた。
「はぁ。もう。先輩ったら急なんだから……。でも、あれってやっぱりプロポー……え!?」
「はい! つかんだ。いえー……い?」
見れば、凪がつかんだのは鈴ちゃんの小さな胸だった。セーラー服の上から思いっきりつかんでいる。
「キャー! 先輩のエッチ!」
パチン、と鈴ちゃんが凪の頬を叩いた。
あちゃー。こいつも鈴ちゃんも、変にタイミングが悪いな。
凪は叩かれた衝撃で後ろに飛んで仰向けに床に倒れた。
鈴ちゃんは凪を見下ろして、
「待ち伏せまでして触ってくるなんて、ホント信じられないです!」
俺は倒れた凪の顔を見て、ふと気づいた。
「あ……。凪、おまえの頬で蚊がつぶれてるぞ」
どうやら、凪が捕まえようとしていた蚊は、ちょうどタイミングよく放たれた鈴ちゃんのビンタによってつぶされたようだ。
凪はそれを聞いて、フッと笑い、親指を立てる。
「ナイス。ありがとう、鈴ちゃん」
お礼を言われた鈴ちゃんはなんのことかわからず、また赤面して言った。
「叩かれてお礼を言うなんて、先輩のヘンターイ!」
鈴ちゃんに罵られても、蚊をつぶせた満足感で笑顔の凪。それをまた変な物でも見るようにして逃げ去ってゆく鈴ちゃん。
俺はその様子を見て、深くため息をつく。
「今年も、蚊との戦いは大変だったな……」
おわり
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