顕微鏡を使って
自室にて。
良人さんが床に手足をついて馬になり踏み台になってくれたおかげで、俺は顕微鏡を取ることができた。
顕微鏡を手にお茶の間に行く凪についていくと、花音が不思議そうに聞いた。
「凪ちゃん。それなに?」
「顕微鏡さ」
花音もすでに学校で習ったと思うけど、俺は簡潔に説明してやる。
「顕微鏡は普通見えない物も見えるんだ」
「開くんの家は顕微鏡なんてあるんだ。すごいね」
良人さんは感心しながらこたつに座る。
果たして凪がいったいなにを観察するのか気になって見ていると、凪は良人さんの写真を取り出して顕微鏡にセットした。
「えぇ! ボクを見るの? 照れるな~」
と、良人さんはムフフと頭をぽりぽりかいた。
「あたしにはなにがしたいのかさっぱり」
「俺にもわからないよ」
呆れる花音と俺に比べて、良人さんはやんちゃ坊主みたいに鼻の頭をこすり、「そんなじっくりと見られると恥ずかしいもんだね。ボクなんてどこからどう見ても普通なのにさ。へへ」とか言っている。確かに冴えない雰囲気とヒゲが濃いこと以外は普通だしな。
凪は真剣に顕微鏡を覗き込んでいたが、やがて顔を上げた。
「ふーむ」
「どうだった?」
キラキラした笑顔で尋ねる良人さんに、凪はさらりと言った。
「いくら見ても全然見えない。見えない物も見えるっていうのは嘘だったのだ」
つぶらな瞳をしばたたかせる良人さん。
「なんの話?」
「顕微鏡を使っても、良人さんからは威厳が見えなかった」
ズコっと良人さんがこけた。
俺と花音もカクリと小さくこける。
「悪かったね! どうせボクは凪くんに同級生扱いされてる普通の友達だよ!」
とほほ、と良人さんは背中を丸める。
まあ、本当にただの友達だからな。威厳を漂わせず親しみやすいのが良人さんのいいところだ。これを本人に言うとすぐお調子に乗るから言わないけど。
そのとき。
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴って、花音が出た。
「こんにちは」
声から察するに、若い女の人のようだ。
「あの、お母さんはいる?」
「お母さんはいないです。あたしまだ中学生だからわからないんですけど」
どうやらセールスらしく、花音はわからないと言って断っていた。まだお母さんがいるかどうかしか聞かれてない段階で中学生だからわからないってのはちょっと意味がわからないが、花音はセールスの扱いには慣れているのだ。
なにを思ったのか、そこに凪が顔を出す。
「お~。すみません、一枚いいですか?」
チラッと見てみると、化粧の濃いお姉さんを、凪が写真に撮っていた。目の周りなんか真っ黒でファンデーションも容赦なく塗りたくっているような人を写真に収めて、あいつはなにがしたいのやら。
セールスのお姉さんはまんざらでもないのかポーズをつけて、
「え? 写真? 別にいいけど~? うふ」
しかしポーズ自体には興味もない様子の凪がお茶の間に戻ってくる。
「凪、なにしてるんだよ」
俺の言葉など無視して、凪はいそいそとスマホの画面を顕微鏡にセットしている。なにしてるんだ?
良人さんと顔を見合わせると、凪が顕微鏡を覗き込んで声を上げた。
「ほえ~! 見える」
「もしもし、凪くん? なにが見えるの? 見えない物が見えたのかい?」
良人さんに問いかけられて、凪は顕微鏡から目を離さず言った。
「米粒のようではあるけど、あの人にもわずかに目があったのだ」
あはは。俺は苦笑いを浮かべる。
化粧があんなに濃くて目の周りが真っ黒で普段はその形が見えなくても、そりゃあ目はあるからな。
セールスのお姉さんが帰ってくれて花音もお茶の間に戻り、俺たち四人は再び顕微鏡を囲んだ。
そこへ、お父さんがやってきた。
「なんだ、顕微鏡見てんのか!」
ちょっと楽しそうなお父さん。我が子たちが久しぶりに自分が買ってあげた顕微鏡を見ていたら、うれしくもなるか。
まだ凪がくだらないことにしか使ってないけど、俺はうなずく。
「そうだよ。お父さんはなにか見たいものある?」
「いやー、ねーな。お父さんはいいから、おまえらが使え」
そう言われても、俺は使う予定ないけどな。
良人さんが困ったように、
「とはいえ、ミジンコとかもいないしね」
「あー。ね。ミジン粉? だっけ? うん、うちにはいまないかも。切らしてるかもねー。うん。一応、台所見てこようか?」
花音はミジンコがわかってなくて、小麦粉の仲間だと勘違いしている。そんな花音に良人さんが驚愕の表情を向けた。
「え? ここんち、台所にミジンコいるの?」
いるわけーだろ。おバカな花音の言葉を真に受けるな。
「あ、いや、でも、ミジンコって微生物みたいなもんだし、どこにでもいるのか」
と、良人さんは納得しかけていた。良人さんはよくわからない名前の妙な大学に一浪して入ったくらいの人だし、この程度でも仕方ないか。
お父さんは嬉々として俺たちの様子を見守っていたが、誰も見る気配がないので、ついにじれたようだ。
「なんか見ないのか?」
「俺は特に」
そう答えると、お父さんは説教するように滔々と言った。
「顕微鏡はな、どんなに小さなものでも大きくはっきり見えるんだぞ。なにも微生物とかじゃなくてもいい。石の表面とか、はっぱの表面とか、いろいろあるだろう。花音や良人くんが見てもいいんだぞ」
と、お父さんは俺をガン見して言った。なんで俺に言うんだ。このように、なぜかうちの父は花音にちょっとしたことをなにか怒ったり叱ったりするとき、俺や凪をガン見する習性があるのだ。逆に、俺になにか言うときは花音をガン見したりする。まったくもって意味がわからない。
それでも名前を言われたら良人さんは謙虚に断る。
「ボクは大丈夫です」
花音はそんな良人さんを見つめて、
「本当にないの?」
「そうだよ、見たらいいじゃないか」
と凪が煽るよう言って、ごはん茶碗を差し出した。良人さんはまじまじとごはん茶碗を受け取って眺める。
「え? これって、ボクのお茶碗じゃないか」
「ちょうど良人さんの器を持ってたからどうぞ」
こいつ、なんでこんなもん持ってんだ。
手のひらを見せて促す凪に、良人さんはキリリと眉を上げてつっこむ。
「ボクの器が小さいって言いたいの!?」
「え? そんなこと言ってないけど。陶器の表面とかどうなってるのかなって」
「ちょっとっ、凪くん! もう~!」
と、良人さんは凪をひじで小突く。どうしてだか少しうれしそうだ。いじってもらえておいしいとか思っているのだろうか。
「でも、ボクだったら自分の毛穴とかちょっと見てみたいかな。ボクってヒゲが濃いから、どんなふうに見えるのか気になってね。えへへ」
「そんなことに俺の顕微鏡使わないでくださいよ!」
「あはは。ごめんよ、開くん」
愉快そうに謝っているところを見ると、このお調子者モードの良人さんは、俺につっこまれて自分のボケがうまくいったと思っているのだろう。実際使われたらたまったものではないし、そろそろしまっておこう。
そう思ったとき、お母さんがおやつのゼリーを持ってきた。
「みんな食べてー。お父さんや良人くんもいるから一人分はちょっとだけ小さくなっちゃったけど、手作りよ」
ふらりとやってきただけの良人さんもおやつにありつけてうれしそうだ。別に俺もしこたまゼリーを食べてやろうと思っていたわけでもないのでそれほど残念でもないが、花音は分け前が減って口先をとがらせた。
「あたしもっとたくさん食べたかったなー」
そうは言いつつも、花音もおやつのゼリーをみんなと美味しそうに食べている中、俺は凪にジト目を向けて言った。
「おい、凪。いい加減それやめろよ」
凪は俺を見ることもなく、
「こうすれば、小さいゼリーもたくさん食べた気分になるのだ」
これも工夫と言っていいのだろうか。凪は顕微鏡で小さいゼリーを見ながら食べていた。よく考えるものだ。
それを見た花音が冷めた目でつぶやく。
「ああまでしてたくさん食べたいとは思わないかな」
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