サイン

 北風が冷たい。

 コートやダウンがないと厳しい寒さである。

 こんな日は、早く帰ってこたつに入りたいものだ。

 現在、俺と凪と花音の三人は外出から帰るところだった。


 三人で街を歩いていると、なにかの団体の人たちが、署名活動をしていた。

『薬物をなくそう』

 と、書いてある。

 なるほど。

 薬物撲滅キャンペーンでもしているのか。

 正直、ただの高校生の俺にはこれまで関わりがまったくなかったと言っていい。だからいまもスルーして通り過ぎようとしていたのだが、それでも、声はかけられた。

「署名お願いできますか?」

 あったかそうな白いダウンコートを着込んだおじさんに頼まれてしまった。おじさんのダウンコート、白地に黄緑色のラインが入っていて綺麗だな。

 それはともかくして、困り顔で俺と花音がなんて答えようとかと思っていると、

「ん?」

 と、凪がワンテンポ遅れておじさんを見た。

 おじさんは再度、言葉を変えて説明する。

「サイン、お願いできますでしょうか?」

「なんだ。そんなことか。いいよ」

 あっさりと凪は快諾した。

 マジか。いくらこの手の署名が悪用されることはほとんどないとはいえ、万が一、個人情報を利用される可能性だってあるのに。

 こういった活動にも善意的な凪の姿に感心していると、凪は、おじさんが手渡すボールペンとバインダーには目もくれず、ポケットからマジックを取り出した。

「なんで持ってるの……!」

 花音が驚いている。

 凪はキャップを取って、キュッ、キュッとおじさんのジャンパーの背中に大きくサインを書いた。

 ローマ字で、

『Negi』

 白いダウンコートには目立つ落書きだな……。

 つーか、それじゃ『凪』じゃなくて『ネギ』だぞ。白地に黄緑色のラインのダウンコートで『ネギ』って、そういうコンセプトだと思われてしまいそうだ。

 俺なら絶対、もう着られない。

 間違っているのに、凪は満足げにうなずく。

「うん、これはうまくいったぞ。お礼はいらないよ。じゃ」

 おじさんは慌ててダウンコートを脱いで、確認した。

「うわっ! なんだこれ!」

 そして、間違いにも気づかず颯爽と歩き出す凪の肩を、おじさんはがしっとつかんだ。

「待って!」

「だからお礼はいいって」

「そうじゃなくて、サインっていうのは署名ってことだよ。こちらの紙に、署名お願いできますか?」

 おじさんにぐいっと詰め寄られ、凪はやれやれと手を広げた。

「そうならそうって言ってよね。ぼくのファンじゃなかったか。ぬか喜びしちゃったぜ」

「おまえにファンなんていねーよ」

 かくして、凪が署名するもんだから、俺と花音も署名させられることになってしまった。

 凪からボールペンを受け取って、俺が先に署名した。

「よし、書けた。はい、花音」

 と、花音にボールペンを渡すけど、花音は困惑したように、俺を見上げた。

「お兄ちゃん」

「どうした?」

 花音はペンを走らせながら、

「署名ってなんか怖いから、匿名にしておくね」

「それじゃ署名の意味ねーだろ!」

「言われてみえばそうだね。書き直すよ」

 えへへ、と苦笑いする花音。しかも、署名をよく見れば、『匿名』じゃなく『特命』と書いてある。

「誰からの特別命令だよ」

 ため息交じりにつぶやいた。凪じゃなく、花音も困ったやつだ。

「ねえ、お兄ちゃん」

「ん? 今度はなに?」

「ハンドルネームじゃダメかな?」

「ダメ」

 本当になんのための署名だよ。

 おじさんが慌てて、

「大丈夫だよ。絶対安心だから。ね?」

「はい」

 花音のやつ、普段は凪の嘘とかにも騙されやすいのに、こういうときは警戒心が強いんだよな。でもおじさんの説得もあり、花音も署名した。

 三人が書き終わると、やっとおじさんの顔に笑顔が咲いた。

「ありがとね。三人共」

「いやいや。ぼくたちは当然のことをしたまでさ」

「うん。あたしたち、困ってる人の味方だから」

 その割には、凪も花音もこのおじさん困らせてたけどな。

 すると、おじさんはおもむろにダウンコートを脱ぎ出した。中はセーターだけど、この寒空の下では、すぐに冷えてしまいそうだ。とはいえ――

「キミ、このダウンコート、ワタシはもう着られないしあげるよ」

 あんな目立つ落書きがあったら、さすがに着られないよな……。

「おう。ありがとう。今日は寒いから助かるよ」

 軽く手をあげて、ネギ風ダウンコートを羽織る凪。

 そんな凪のネギ風ダウンコートを見て、花音が褒めちぎる。

「凪ちゃん、似合ってるよ! 色味も綺麗で清涼感あるし!」

「冬に清涼感いるか!?」

 と、思わず俺はつっこむ。

「爽やかなのは季節問わずいいことだよ! サイズもピッタリだし、カッコイイよ! ちょっと長ネギみたいな感じだけど」

「まあ、似合ってるはいるよな。ちょっと長ネギみたいな感じだけど」

 と、俺も同意する。

「ぼくなら着こなすってもんよ」

 パン、と凪は自分の膝小僧を叩いた。なんでわざわざコート部分じゃない膝だよ。せめて腕を叩け。

 花音がうれしそうに微笑む。

「あたしたちって、なんか人からよく物をもらえるよね。えへへ」

「だね。ぼくたち、目をかけてもらえるっていうかね。ははっ」

 目をかけるじゃなくて迷惑をかけるの間違いだろ。

 確かに俺たちは、見ず知らずの人から物をもらえるようなところはあるが、この場合はそういうのとは違うと思う。


 帰宅して、お母さんが凪のネギ風ダウンコートを見た。

「あら。凪ちゃん買ったの? 似合ってるじゃん! カッコイイ~! ちょっと長ネギみたいな感じだけど」

 ばあちゃんも深くうなずく。

「ほんと、カッコイイわ! 色がちょっと白菜みたいだけど」

「そこは長ネギでしょ!」

 と、俺と花音のつっこみが重なる。

 凪は頭をかいて、

「いやぁ~、そんな褒められるなんてうれしいぜ。実はこれ、もらったのさ。親切なおじさんにね」

「うげげげ!」

 と、のけぞるようにして、オーバーリアクションで驚く母。

 知らないおじさんにもらったと聞いたら、そりゃ驚くよな。

 凪はあっけらかんとした顔で、

「それにしても、あの人も急激に太ったようには見えなかったのに、どうして急に着られなくなったんだろうね」

AokiFutaba Works 蒼城双葉のアトリエ

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