お灸
良人さんがぐるぐる肩から腕を回しながら探偵事務所にやってきた。
俺は言った。
「なんだか調子よさそうですね」
「そうなんだよ。わかる?」
「え、そうなの?」
逸美ちゃんも食いつき、良人さんはさらに機嫌をよくしてしゃべり出した。
「実はさ、お灸をやってもらったんだ。そうしたら調子が良くて困るよ」
いいのに困ることはあるまい。
しかしお灸か。
和室で勉強していた鈴ちゃんがちょっと興味を持ったように問う。
「でも、お灸って専門の医師にやってもらうものじゃないんですか?」
「いいや、プロじゃなくてもできるんだよ。いまはいろんなのがあるからね」
得意そうに答える良人さん。
作哉くんは鈴ちゃんとは反対に、興味なさそうに言った。
「オレは痛みがねェし、暑さも感じねェからな。効くか怪しいもんだぜ」
そもそも痛みも暑さも感じない人が身体の不調を訴えることもないだろう。
ノノちゃんは苦笑いで、
「ちょっと、ノノは怖いです」
「大丈夫だよ。そうだ、ちょっと手本を見せてあげようか。ボクがお灸するとこ」
そこへ、遅れて凪がやってくる。
「やあ、良人さん。お灸を据えられるだなんて、またなにかやらかしたのかい?」
「キミじゃないんだからなんにもないよ」
ジト目で答える良人さんだったけど、凪にもいま一度、自分がお灸をして調子がよくなったことを説明した。
「へえ。おもしろそうだ。でも、お灸を据えるって言うくらいだし、おっかないものってイメージがあるよ」
と、凪が言った。
「確かに、最初はおっかないかもね。でも、一度やったら平気なもんさ」
「いたずら小僧はみんなそう言うんだ」
腰に手を当てて、良人さんをいたずら小僧でも見るみたいにじぃっと見る凪。
「だから、キミにだけは言われたくないよ」
俺は丁重にお断りする。
「あの、俺はいいので他の人にやってあげてください」
「わたしもちょっと怖いわぁ」
「ノノもご遠慮します」
「あたしもごめんなさい」
「オレはパス」
俺、逸美ちゃん、ノノちゃん、鈴ちゃん、作哉くん、全員パス。
よって、良人さんのターゲットは再び凪に向いた。
「てことだからさぁ! 凪くん、お灸やってみない? お灸は、二千年の歴史を持ち、効果も実証された、すごいものなんだから」
「しょうがない。とりあえず、良人さんがするところを見ることから始めよう」
「うん、見ててよ」
凪が渋々というより適当にそう言って、良人さんはうなずいた。
良人さんは上半身裸になって、お灸のセットを取り出した。
「まずはね、お灸っていうのは、ツボにやるんだ」
聞きかじったような説明を始める良人さん。
凪は「ははっ」と笑った。
「なーんだ。それならぼくにも簡単にできてしまうよ。じゃあ、あとはやっておくよ」
「え? これだけでもうわかったの?」
ささ、と凪に背中を押されて、良人さんは上半身裸のまま探偵事務所の外に出された。
「な、なにこれ……。とほほ」
そんな声がドア越しに聞こえてくる。
で、凪がなにをするかと思っていると、先日所長がもらってきたという高級の壺ツボに、凪はお灸を置いていった。
「なんだかお灸って儀式みたいだなぁ」
そのとき、探偵事務所のドアが開いた。
立っていたのは良人さんだ。
「ごめん、ちょっと忘れ物を……て、なにそれ。なにかの儀式?」
そのあと。
凪は良人さんに、ツボはその壺ではないと教わっていた。こんなやつにマジメにご教授してやることないだろうに、親切というか人がいいというか。
「ただいまー」
家に帰って、凪はいつものように明智家のお茶の間で家族みんなとテレビを観ていた。
お笑い芸人さんがおもしろいことを言って、花音がお腹を抱えて笑い出した。
「あはははは! ははは! ダメっ! お腹痛い! ツボに入った! あはははは!」
かなりの大笑い。
俺と凪と花音の三人でしゃべっているときも、花音はちょいちょいお腹がよじれるほどの大笑いをすることがあるんだけど、今日のはテレビの芸人さんといっしょになって凪も変なことを言っていたから余計ツボに入っている。
「……」
凪はそんな花音を見て、思い出したようにどこかへ行った。そして、一分もしないで戻って来る。
なにするんだ?
様子を見ていると、凪はお灸を持って花音に乗せようとしていた。
「えーと、笑いのツボはどこにあるんだ?」
俺はぼそっと言った。
「そのツボにも効果はねーよ」
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